今回の記事は、今年の1月くらいからちょこちょこ炎上している大河ドラマについての話題だ。
なお、俺にとっての大河ドラマは、武田信玄(1988年1月10日から12月18日)で終わった。
別に大河ドラマが嫌いなわけではなく、歴史が嫌いなわけでもない。
あえて見る必要がなく、他に好きなものができた。ただそれだけだ。
「武田信玄」は大河ドラマ第26作だったのだが、今放送している「どうする家康」は第62作にあたるらしい。
時間が流れるのは早いもんだ。
で、その「どうする家康」がどうにも色々と「よろしくない」ということで、ちょいと興味を惹かれた次第。
この記事は、
「どうする家康」を見ながら微妙な感情を抱いている人。
「そりゃあねえよ」とがっかりした人。
興味はないけど、「すべってんの?」って興味をもった人。
「何言ってんだよ、おもしれえよ!」と反論してくれる人。
など、「どうする家康」に興味をひかれた様々な人たちに向けて作成している。
さて、一体何が問題となっているのか、見ていこう。
「どうする家康」とは
『どうする家康』(どうするいえやす)は、2023年(令和5年)1月8日から放送されているNHK大河ドラマ第62作。徳川家康の生涯を新たな視点で描く。Wikiより
徳川家康を知らない日本人はいない。それゆえに注目度も高い。
何より約260年にも及ぶ時代を築いた人物である。
ドラマがないわけがない。
実際に今まで何度も家康を題材にした作品が、様々な媒体で提供されている。
主演の松本潤氏は「視聴率請負人」と呼ばれるほどの俳優さん。
脚本は古沢良太氏、ドラマ「リーガル・ハイ」「コンフィデンスマンJP」などの名作を手掛けた実力ある脚本家だ。
はて、ますます面妖な(時代がかった言い方)
こういった組み合わせで、なぜに低評価なのか。
「どうする家康」の平均視聴率(ワースト2位)
「どうする家康」の平均視聴率は、32話までで11.40%。
ちなみに俺が最後に見た「武田信玄」(1988年)の視聴率が39.2%。
2019年の「いだてん」が8.16%なので、最下位ではないが。
今のところ、最下位から数えて2番目。
いやはや、嫌な流れである。
どうでもいいけど、「いだてん」…、いやもはや何も言うまい。
「どうする家康」に対する批判の声
どうしてこれほどまでに視聴率が低迷しているのか。
批判の声を取り上げることにする。
- 乗馬のシーンがまるでメリーゴーラウンド
- 合戦シーンがカット(予算ねーのかよ)
- 松潤は時代劇に向かない
- CG以外の見せ場がない(そのCGもまあ見られる程度)
- 大河ドラマでBL(!!)とか
なんだか、不穏な批評が目につく(特に最後)
しかし、どんな批評よりも一番目につくのが「史実とは違いすぎる」という点だ。
脚本がひどい?史実と違う
素人が付け焼刃の知識で脚本を書いているようだ、などと揶揄されている本作。
時代考証が滅茶苦茶で、歴史に詳しい人が見ると「それはないだろう」と突っ込みを入れるレベルなのだとか。
まあ、俺は歴史に関しては最低限度の知識しか有しない人間ではあるが、
「火縄銃を連射している」
という書き込みには、さすがに目が飛び出るかと思った次第。
もっとも、昨今では松本潤氏演じる家康も貫禄がマシ、ドラマ自体もそこそこマシになったという声も聞く。
ところが9月17日の「PRESIDENT Online」で、歴史評論家であり、音楽評論家でもある香原斗志氏の『歴史ドラマを台無しにする「悲劇のヒロイン・築山殿」というトンデモ』という記事が紹介された。
悲劇のヒロイン・築山殿(ドラマでは瀬名)というのは、本能寺の変を3年さかのぼる天正7年に死去した家康の正室のことである。
「どうする家康」では、有村架純氏が演じている。
香原斗志氏は「家康とは不仲で、徳川家への謀反にも関与していたと考えられる築山殿を、平和な世を希求しながら理不尽に命を奪われた殉教者のように描いたことが、のちのちまでドラマに負の影響をおよぼしている」と語る。
まあ、詳しくはこちらの記事を読んでもらいたいが、簡単に言えば、お涙頂戴のシーンを作るために『史実を歪めた』ということらしい。
そして「何かを歪める」ということは、その歪みが必ず「他の何か(史実)までも歪めてしまう」ということになるのである。
例えば「徳川家康が天下人を初めから目指していわけではない」という事実は、歴史に詳しい人なら(それほど詳しくなくても)常識であろう。
ところが、「どうする家康」では「亡くなった築山殿がめざした平和な世をつくる」というセリフを、かなり早い時期から家康が口にしている。
歪みが、さらなる歪みを招いた例であろう。
実際の筑山殿は、「家康に対する謀反の首謀者だとされている」し、当時の時代背景を考えてもそんなメルヘンな世を目指していた人物はいないということらしい。
歪みがさらなる歪みを招き、その先にあるのは「史実とは決して相いれない矛盾」のみである。
それを解釈の違いとすべきなのか
ネット上ではこれらの明らかに史実とは違った展開に対して、「これらの脚本は解釈の違いである」「見方を変えてドラマとして提供されたお話である」といった意見もあるようだ。
確かに、その見方もありだと思う。
ただし、それが脚本家のご都合主義な作意のうえに成り立っているのだとしたら、これは歴史に対する冒涜であると言えよう。
あくまで史実を踏まえたうえで、これは違った視点でも考えうるという歴史のミステリーにこそ解釈の入り込む余地があるのだ。
大河ドラマは、仮にも公共放送(笑)をうたうNHKが提供する番組だ。
であるならば、国の歴史や一時代を築いた人物に対しての敬意というものはドラマをつくるうえでの前提条件だろう。
歪んだ形で歴史を伝えるのは、それを見ている次の世代の子供達に対してもあまり良い影響を与えるとは思えない。
そのあたり、歴史を愛する人や在りし日の大河ドラマを愛する人には受け入れがたいものであると思う。
どうする家康のブルーレイディスク、DVD、完全版(火縄銃連写は第2話)