「なぜスネイプは黒人俳優に? その配役に込められた“今”を読む」
20年の時を経て蘇る『ハリー・ポッター』
しかし、あの冷酷で悲哀を背負ったスネイプが“黒人俳優”に変わると聞いて、戸惑わないファンはいないだろう。
アラン・リックマンの静かな威圧感を思い出せば、なおさらだ。
だが、これはただの“見た目の変更”ではない。そこには「原作解釈の再構築」「多様性という現代的要請」「物語への新たな問い」が詰まっている。
騒がれる理由も、反発される背景も、全部理由がある。
——今、俺たちは“スネイプ像”の再定義を迫られている。
なぜ、あのキャラが変わったのか?
この違和感は、無視していいものなのか?
なぜスネイプ役が黒人俳優に?映画との違いはどう説明されている?
20年近くスネイプ像を支えてきたのは、他でもないアラン・リックマンだ。抑制された語り、冷たい眼差し、そしてあの鈍く重い声。
リックマンはすでに逝去されているため、もはやスペイプを演じることはできないのは当然として…。
新たなスネイプ役を“黒人俳優に交代”と聞いて、違和感を覚えない方が不自然だ。
今回、HBOによるドラマ版『ハリー・ポッター』でそのスネイプ役に抜擢されたのはパーパ・エッシードゥ。肌の色も風貌も、リックマンとは真逆だ。しかもビジュアルだけでなく、年齢的にも原作に寄せたというから、あくまで“新しい解釈”として提示された形だ。
ではなぜ変えた?結論から言うと、「原作に忠実+現代的価値観の融合」だ。
原作に明記されていない“人種”という空白に、多様性という絵の具を塗った。それが今回のスネイプだ。
ドラマ版スネイプはパーパ・エッシードゥ!どんな俳優?評価は?
名前を聞いて「誰?」となった人も多いだろうが、実は英国演劇界では知られた存在だ。
- 出身:ロンドン
- 生年:1990年
- 代表作:『I May Destroy You』『ザ・ラザロ・プロジェクト』
特に『I May Destroy You』では精神的に複雑な役を巧みに演じ、エミー賞候補にも挙がった。要するに“ビジュアルのイメージ違い”こそあれ、実力は折り紙付きだ。
HBOがあえてこのタイミングで抜擢したのは、“演技力で納得させる覚悟”があるからこそだろう。
原作のスネイプ像には人種設定がある?アラン・リックマン版との違いは?
ここが盲点。
『ハリー・ポッター』原作には、スネイプの人種についての記述は存在しない。
描かれるのは、
- 「長くて脂っぽい黒髪」
- 「鉤鼻」
- 「青白い肌」
というあくまで印象描写であり、白人とも黒人とも断定されていない。
一方で、映画版(アラン・リックマン)は完全に“白人像”で統一され、視覚的にもシリーズを通じて固定化された。それゆえ今回の変更は、「原作再解釈なのか?それともポリコレ配慮なのか?」という疑念を生んでいる。
配役変更の背景にある「多様性」重視とは何を意味している?
「多様性」——便利な言葉だが、安易に使えば火種になる。
今回のHBOドラマは、"より長期的なシリーズ化"を目指している。そのため、現代のグローバルな視聴者を意識したキャスティングは避けられなかった。つまり、視聴者の幅を広げるために、あえて“象徴的なキャラ”に変化を加えたともいえる。
批判されるのを承知の上で、議論の的になること自体をプロモーションとする。そんな空気も透けて見える。
なぜHBOはスネイプ役に黒人俳優を起用したのか?制作陣の狙いとは?
端的に言おう。「時代が変わった」のだ。
映画公開当時(2000年代初頭)と比べて、今のエンタメ界には「誰が演じてもいい」が標準装備になっている。
特にHBOはこれまでも『ゲーム・オブ・スローンズ』『ラヴクラフト・カントリー』などで人種・性別を問い直す作品を手がけてきた。
スネイプという重要キャラに新解釈を入れるのは、視聴者との対話の“きっかけ”にしたい、という狙いもある。
J.K.ローリングやHBOはこの配役にどう関与している?
原作者のJ.K.ローリングは、本作でも製作総指揮に名を連ねている。ただし、近年の彼女はトランスジェンダー問題を巡って炎上しており、その立場は賛否の渦中にある。
キャスティングについて具体的なコメントは現時点で確認されていないが、HBOのCEO・ケイシー・ブロイズは「ローリングは制作陣と緊密に連携している」と明言している。
つまり、黙認でも承認でもないが、強く反対はしていないという微妙な立場にあると見ていい。
過去のキャスティングと比べて、今回の配慮は特別なのか?
映画版と比較して明らかに異なるのは、“顔ぶれの多様性”だ。
- マクゴナガル役:ジャネット・マクティア(スコットランド系)
- ハグリッド役:ニック・フロスト(英国系コメディアン)
- クィレル役:ルーク・タロン(舞台出身)
とにかく映画版とは“別物”にしたい意志が強い。
多様性というより、「同じことは繰り返さないぞ」という、制作者側の勝負勘がにじんでいる。
SNSではなぜスネイプ役の黒人化が議論を呼んでいるのか?
スネイプ役の黒人化は、ネットの世界で瞬間湯沸かし器のごとく燃えた。
理由は単純。「慣れ親しんだものが壊された」と感じる人が多かったからだ。
「これは違う」「イメージが崩れる」——この手の反応は、リブート作品における“恒例行事”みたいなもんだが、今回は特に“人種”というセンシティブな要素が絡んだことで、感情の振れ幅が極端になった。
賛否両論が生まれた理由は?ポリコレ批判や支持の声とは?
まず否定派の意見は、大きく3つに集約される。
- 映画版のリックマン像を崩されたショック
- 「黒人化」によってポリコレが過剰だという不満
- 話題づくり・炎上商法に見えるという冷笑
中でも「ポリコレ疲れ」という言葉が象徴的だ。近年の作品群において、「多様性」が物語のリアリティや構成を犠牲にしてまで優先されることに対する“飽き”や“違和感”が、爆発している。
一方で支持派はというと、
- 「キャラの本質に人種は関係ない」
- 「スネイプの悲劇性こそ、演技力で表現されるべき」
- 「見た目ではなく魂を見ろ」
といった、“役者で選ぶべきだろ”という原理主義的な正論が多い。
特に演劇関係者や若い世代にはこの支持層が強い。
公式や俳優本人からコメントは出ている?炎上の実態は?
2025年4月現在、HBOやパーパ・エッシードゥ本人からの直接的なコメントは確認されていない。
ただし、VarietyやThe Hollywood Reporterなどの信頼筋が報じるところによれば、制作側は「より幅広い視聴者に届く新解釈」として自信を持っているとのこと。
つまり、「燃えてもいい、むしろ燃えて注目されるならOK」くらいのスタンス。言葉は悪いが、“最初の数話がバズれば勝ち”という現代型のコンテンツ戦略が透けて見える。
他キャラも変わった?ドラマ版ハリーポッターのキャスト全体像は?
ここまでスネイプの話ばかりしてきたが、実はキャスト変更は彼だけじゃない。
HBO版『ハリー・ポッター』は“全リセット”とも言うべき抜本的見直しをしている。
ハーマイオニーやマクゴナガル役も映画と大きく違う?
マクゴナガル役は、映画で名演を残したマギー・スミス(故人)では当然なく、ジャネット・マクティアが演じることに決定。彼女は『オザークへようこそ』などの出演歴があり、強さと威厳を兼ね備えた俳優だ。
ハーマイオニーに関しては、公開オーディションでの新人起用が濃厚とされている。3万件以上の応募があり、映像世代の“新しいアイコン”を作る方針らしい。
つまり、製作陣は「過去を引きずらず、全く新しいハリポタ像を作る覚悟がある」というわけだ。
「原作に忠実」の方針は本当に守られているのか?
公式発表では「原作に忠実」という方針が繰り返されているが、ここで言う“忠実”とは、ストーリーラインやイベント構成を指している。
ビジュアルやキャストに関しては、むしろ“原作に縛られない自由な再構築”*なされている印象だ。
つまり、忠実なのはプロットであり、描き方は“現代流”にアップデートされた。それがHBO版のスタンスだ。
「悪役に黒人」は問題?スネイプ配役が孕む社会的な問いとは?
この話題に触れるとき、よくある誤解がある。それは「スネイプ=完全な悪役」という捉え方だ。だが実際の彼は、シリーズ全体の中で最も“誤解されやすい複雑な人物”として描かれている。
その上で今回、スネイプ役を黒人俳優が演じることになったことで、「悪役ポジションに黒人を据えるのは問題では?」という社会的視点からの懸念がSNS上で散見されるようになった。
映画・ドラマ界における“役柄と人種”の過去と今
過去、ハリウッド映画では黒人俳優が「犯罪者」「貧困層」「道化」といったステレオタイプな役割に押し込まれてきた事実がある。
これは映画史研究においても繰り返し批判されてきた構造的な偏見だ。
- 『トレーニング・デイ』(2001)で黒人俳優デンゼル・ワシントンが悪徳刑事役でアカデミー賞
- 『グリーンマイル』『ヘルプ』などでの「黒人救世主」型のキャラ設定
…これらは一見“成功”だが、「白人の物語に奉仕する役割」から抜け出せていないとの指摘も多い。
そんな中、スネイプのような「誤解された複雑な人物」を黒人俳優が演じることで、“黒人が単なる悪役ではなく、物語の核を担う役割も担える”という反転のメッセージにもなり得る。
つまり、問題か否かは「描き方次第」だ。
今後も議論が続く?視聴者と制作側の認識のズレは?
正直、この手の議論は今後も延々と続く。なぜなら、SNS時代の視聴者は「作品」だけでなく、「制作の意図」や「背景事情」まで追いかけるからだ。
- 制作側:「多様性重視のポジティブな刷新」
- 視聴者の一部:「イメージ破壊+ポリコレ疲れ」
この“ズレ”が埋まらない限り、再解釈=炎上という構図は変わらない。
だが俺はこう思う。
炎上が起きるのは、“そのキャラに思い入れがある証拠”だ。
スネイプというキャラが、ここまで多くの人の心に残っていた——その事実にまずは感謝し、そして冷静に「新しいスネイプ」を見極める目を持つべきだろう。
ここまで読み進めてくれたなら、あんたも相当な“スネイプマニア”か、あるいは“正義感の強い視聴者”だろう。
どちらにせよ、このリブート版がただの“騒がれ損”で終わるか、“新しい解釈”として受け入れられるか。
——すべては演技と脚本の完成度次第だ。
期待と不安を抱えながら、俺も画面の前で正座して待つとしようか。
まとめ
-
映画版のイメージを壊すようなキャスティングに見えて、実は原作に忠実という皮肉。
-
パーパ・エッシードゥは実力派、演技で黙らせる可能性は十分ある。
-
多様性重視の波は止まらない。問題は「誰が演じるか」より「どう描かれるか」だ。
-
SNSの炎上は愛の裏返し。スネイプにここまで注目が集まる時点で、作品としては成功しているとも言える。
“変わったこと”を批判する前に、“どう変わったのか”を見極めよう。それが、大人の視聴者ってもんだ。
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